昭和四十八年十一月八日 朝の御理解
御理解第十五節 「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧下をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」
寄進勧下をして、又は氏子に無理を言う、痛めてとかね、氏子に無理をさせる。
無理という事では神は喜ばぬ。けれども氏子が真から用えるのは神もひれいじゃとおっしゃられる。だから寄進勧下をさせたり、無理をいう事は、神様はお嫌であるという事。お嫌いになる。
金光様の信心のこれも独壇場的なところですね。お金がなからなければ信者にはなれないという事はないのです。会費を入れなければならないという事はないのです。 だからめいめいのグル-プ、共励機関なんかがあります。青年会とか様々な・・・壮年会とか、それが皆の為の会費は皆さん決めておられますけど、教会にお参りするから会費がなからなければと、信徒会というのはありますけど、それもなら、お参りしておっても会にはいらなければならんという事もない。
合楽では入ってない人が沢山あるわけです。それはやはりお道の信心の一つの有難い御利益だというふうに思います。
けれども氏子が真から用えるのは、私はここんとこ、神のひれいじゃがというふうに今までは勘違いしておったような感じがしますけども、今日改めて頂きますと、神もひれいじゃがとおっしゃっておられますね。
神もという事は、神様が生き生きとして生きた喜びを現しなさる。それをここではカッコして、神の威徳とか、又は盛大の意としてありますね。ひれいという事は、これも金光教独特の言葉ですから、普通では字引を引いても無いのではないですかね。 実際御ひれいといったような事は、これはあの、只、喜びというのでなくて、生々とした喜びという事でございます。
それが盛大ないわば形になって現れて来る。いや、あちらは御ひれいが立つげなというような時に使いますね。
あちらの教会は御ひれいが立つ。例えば御大祭なら、御大祭がそれこそ盛大を極める、例えば御大祭なんかと素晴らしい御ひれいだと申します。ですから神様の生々とした神様の躍動したまう程しの喜びという事になるのじゃないでしょうかね。
寄進勧下をしては神は喜ばぬ。ですからその反対の事は神が喜ぶ。只、その喜びというても神もひれいじゃがとおっしゃっておられますからね、その神も喜びという事はです、神のではない。私は今まで神のという感じで頂いとった。
神様も喜んで下さる、神もひれいじゃが、神も喜ぶという事だと思う。その喜びも只の喜びではなくて、丁度それは魚の尾鰭という事を申します、鰭を泳ぐ時にパッパッとこう勢いよく鰭を立てて行く。あれの意だというふうに私は聞いております。
ひれいというのは、もう素晴らしいその勢い、もう神様がいきりたって喜んで下さる。皆さんも、此処では御神殿でもそうですが、生々としておる方の御神殿では、必ず御ひれいがそれは神様の御ひれいがあるわけですから、あの、おいさみなんかが、神様が勇み立ってござる。
もう本当に恐ろしい位、そのお勇みというのが、神様の心に触れてしかも、それがそういう事がわかってくれたかとか、ああ、わかったかという時に、あのお勇みというものは大体あるわけですね。
だからそういう神様のひれいを立てるという事の為にも、私共が真から用えるという事は、真からお役に立たせて頂けれる、信者を目指さなければという事がいえますね。真から生々とした、お役に立てれる。いや、用えるという事は、神様が使って下さる。こちらも喜びでいっぱいで使うて頂きたいと願う。
如何に神様に使うて下さいというても、真がなければ神様は使いなさいません。いわゆるひれいが、そういう時に感じられるわけでありますね。
私は、最近思いますのに、本当に合楽教会では、教会長であります私の信心も出来ませんのにもかかわらず、神様はこのような御ひれいを見せて下さる。
こういうような御ひれいを感じさせて下さる。こういうおかげを頂かせて下さる。 信心も出来んのに、いうなら、金光様の信心すれば、ああいうおかげも受けなさるという一つの手本のようなものを見せて下さる。
そりゃもう金光様の先生になるなら、あげんおかげを頂くなら、私もいっちょ、金光様の先生になろうというとこでしょうね。
ところが誰でもというわけにはいかんというところにですたい、私はいわば、私の信心のどこが神様、信心も出来んのに人が、ある意味では羨望する、羨むような、或る意味では素晴らしい御ひれいだなあと、まあだようやく教会になって、五年位しかならんのに、あれだけの御ひれい、それは例えば他の教会なんかに比較してそれを本当に感じれるわけです。
それこそ大坪さんはフが良かと言われる所以(ゆえん)はそこにあるわけです。ですから神様が手本になるようなおかげをこうやって見せて下さるのですから、なら、合楽の信心を、いよいよ手本にしたいという人達が出来なければならんという事になります。だが、そういう点になりますと、これ程手本になるようなおかげを頂いとるけれども、なら、我も我もとお道の信心をさして頂いて、本当に信心がわかりたい、おかげを頂きたいという人達がです、合楽の信心をいうなら手本にして、おかげを頂こうという人達は少ない。
なら、此処にお参りをしておる神様の御ひれいで盛大の意という事は、感じられますけれども、なら、集まっておる人達がです、なら、親先生が頂かれた信心を、私共どうでも身につけて、それこそ人の手本になるようなおかげを頂こうという人が、沢山はいないとい事です。
ですから、どうでも形に現れておるおかげだけが手本でなくてね、そのものが生まれた元であるところの、信心を手本にして下さらなければ、本当の信心の手本とか、稽古とかにはならんわけであります。
※ ※ ※ ※ ※ 昨日総代会がございましたから、総代会でもお話しさして頂いた事でした。
お夢を見た、そのお夢が、丁度汽車のプラットホ-ムのような感じ。汽車を待っておるという感じ、そこに或る一人の人が、汽車を待っておるけれども、もうそれが何というですか、虚ろな目をしておる。
何というですかね、神様がそれを説明して下さる。あの氏子は、あの人相はもう自殺を決意しておる者の姿だとこういう。
もう死のうと思うとる。死に場所を探しとるという。そういう人のあれは人相だとですから汽車が早う来ようが来まいが、時間がたとうがもう、只、もう何と申しますかね、それこそ夢か現のようにしとるわけです。
ところが又別の方とにはです、もういつまで待ったっちゃ汽車は来んというふうでからキョロキョロして、いらいらしよんなる人の姿。例えば五時なら五時の汽車が来るのに、もうわかっておるのにです、もう五時にしか汽車は来んというのがわかっておるのです、プラットホ-ムをあっちに行ったりこっちに行ったりして、いらいらしておる。
これが我情我欲で、いうなら、先日からの御理解を頂きますと、もう、俺がという我で生きて行こうとしている人の姿、俺が儲けださねばというような、ですから儲けたり、損したりで、いつも元のもくあみというような本当の儲けだしも出来んというような人の姿なんです。
いわゆる我に生きている人達、これが普通一般の人達の姿であります。一寸遅くなるともう、五時に来るはずのが一寸でも延着でもすると、よけいいらいらするでしょうね、そういう人達。五時になれば来る事がわかっとったっちゃ、やっぱりいらいらする。そこに死を決している人達は、自殺をしようとしている人達は、そこんところはもう落ちついたものです。もう一つの悟りを開いたような感じですけれども、それは虚ろなもの、汽車が遅かろうが、早かろうが、まあ来たつに乗ろうといったような感じ。そういうお知らせを頂いてから、私は、思うたんですけれどもね、そんなら信心を頂いている者なら、どういう事にならなきゃならんか、信心を頂いておってもやはり我で信心している人、おかげを頂きよるけんこそ参りよるとばのというごとあるいうなら、おかげだけが目当ての人、いわゆる我の信心の人はやっぱり同じだろうと思いますね。世間には精心家という人があります。精心家というのは、精は精米所の精、しんは心、いえは家という字ですね。そういう人の中にままあるのです。
もういくらばたばたしたっちゃ、ちゃっと授けられるものは授けられる。出来んものは出来ん。出来るものは出来るとだから、そんなにばたばたせんでんといったように、いうなら、聖人君子形に、そういう人達が多いですね。
いうならば、勉強なら勉強、学問で例えば天地の道理を頭でしっている人達に、そういう人達が多いのです。
どうでもよいといったような境地、だからそういう境地でも有難いですよね。苦にはなりません。ばたばたせんで済むだけでも、そして成程あちらは人格者だというふうに見えるところがありますけれども、金光様ではその聖人君子的もなのではないのです。いわゆる精心家ではないのです。
金光様の御信心を頂いて、段々わからせてもらう。神様がわかり、信心がわかり、いわゆる神様を信ずる力が段々出てくるようになる。そこにです、そこから生まれてくるいうならば、安心というか、いうならば、どうでも良い式とでも申しましょうか 神様を信じておるところからばたばたせんで済む生き方。けれどもそれだけでは本当のおかげには繋がらない。
夕べの総代会の会合に、もう九時になっても見えない方がございます。どうしょってじゃろうか、電話なっとかきゅうかというような事が全然ない。来なさったら来なさったでおかげ、又は来なさらんなら来なさらんでも、又おかげ、だからそこで、いらいらするという事が、助かってない姿だと昨日は聞いて頂いた。
これは会合ならそうですけれど、一事が万事そうなんです。いうならば、お道の信心さして頂いて、神様を信じておるという事は、その時点、時点が有難い。
汽車を待っておる、その間が有難い。いや汽車がこと遅れて来る、遅れて来る事もこれは神様の御都合に違いないとお礼が言えれる心、だからせめてここまでは、皆さん一つ心を開いてもらわねば出来んばいのちゅうて、昨日話した事でした。神様を信じるという事は。
例えば、汽車を待つということでもそうです。その待っている間を、有難いと味合わせて頂ける信心内容、いやそれが時刻に来なくて遅れたというてもです、これは神様の御都合に違いはない、どうしてこげん遅くなったのじゃろうかというて、駅に怒鳴り込んで行く事も何もいらんわけです。
これはもう汽車の事だから、そげん事じゃけれども、怒鳴り込んで行きたい心は実はある自分の心に、自分の損得にかかわる場合は、そういう時にです、神様を信じとるから待つ時間を有難く又は、それが遅くなった、いやそれが損になったところでです、その時点を有難く頂けれる信心、そういうところまでは一つ頂きたい。
同時に今度はもう一つその向こうがある、というのはすみませんという事である。 先日は、五日の壮年会の時に、石井喜代司さんが言ってました。なかなか良い表現だなと私は聞いておりました。金光様の御信心はどこまでもすみません行がなきゃいけない。教祖の神様もこれですんだとは思いませんという生き方をなさった。
いつの場合であっても、どんなに【 】ぱいものが出来ておっても、ならこれで済んだとは思いませんという生き方。それがすみませんとは、まだすんでいない事だというふうに言ってました。
成程すみませんという時には、これで済んだとは思いませんという内容をもって、すみませんと、いわりゃ、口だけでどうもすみません、すみません、口だけじゃいかん。これで済んだとは思いませんという。そのすみませんという内容がすみませんでなからなければならない。
例えば時間を遅れて人に迷惑をかけるような場合、それを神ながらで例えば、例えば有難いというだけでなくて、そういう場合に、只有難く頂くだけでなくて、すみませんで出て頂くようになる時に、ある意味に於いて私は完璧の信心を目指している人達の心の状態だと思います。
三代金光様がおかげを受けられて、もうそれこそ願い以上の、思い以上のおかげを下さる事を有難いと感謝、いうなら喜びに噎んでおられる。
そして次におっしゃっておられる事は、これ程しのおかげが頂けておるのに信心も出来ずにお礼の足りないお詫びばかりを致しておりますと。お礼の足りないお詫びばかりしておるというような、いわゆるこれで済んだとは思いません。いわゆる本当の済みませんという内容。そういう信心が又、段々身についてこなければならん。
今度親教会の御造営の事が、まあ合楽としてというよりも私としてです、どうそれを受けとめさせて、どう現して行こうかという事に、心を粋かせて頂いとります。
そういうような私はもう現す事が出来んときを私は神のひれいじゃなかろうかとこう思う。心から真から用える事になるのです。
これはもう、とにかく、身の皮をはいででも、いうなら借金してからでも、この機会におかげを頂かしてもらわにゃならんというような心が真である。
それを用えた時が神のひれいじゃという事になるのです。そういう私はおかげが頂けれるようになった時にです、私は合楽の信心を見習いたいという人達が出来てくるのじゃないかというふうに思うのです。
只、合楽だけがこう大きくなっていこうしゃる。合楽だけが信者がどんどん増えて行くと。それも確かに神のひれいですけども、これだけのおかげを頂き、これだけの手本になるようなおかげを頂いておるにもかかわらずです、なら、どういう信心からあれが生まれたかと、そういう信心を見習いたい、教えてもらいたいという人の少ないという事はです、私はまだ、神のひれいと思われるような、用えるところの真から用えるところの、まだ欠けているところが原因じゃなかろうかと思うのです。
私は思います、例えば親教会の御造営に一生懸命ならしてもらう。それはどういう事かというと、大きな神様の願い、いうなら、和賀心時代を世界に拡げたいと思召す御神願、御神願成就の基本とも、土台ともなるものだというふうに私は今度は確信しております。
親教会にまだ何も出来ません。けど思いなのです、現在は。真から用いたいと思うておるのです。だれが奉賛しなくても私一人でも、これは借金負うちからでも、何年かかりででも、これだけは成就したいという真の心というものは出来てきよる。
それが実際に現された時にです、盛大の意です。いわゆるそれが神様のひれいをそこに現した事になる。そういう現したものを見てです、そういう信心はどこから生まれて来るかと、それをいうならば、求道してくる、道を求めて来る人達も、まだ多くなるだろう。多くなることその事自体がです、和賀心時代を造るという、いうならば協力者というかそれに奉賛して下さる方達が出来る事になるのですから、和賀心時代を創る一つの基本とも由来(土台)ともなる事だと思うております。
真から用えれる。用いたい。いわゆるお役に立ちたい、立ちたいの一念をです、ここにしぼって現そうとしておるわけであります。
今日は私、神のひれいと思うておったのが、神のでなくて、神もひれいじゃとおっしゃられる。そこを一寸、新たな感じで頂いたんです。
氏子が真から用えるのみ、神もひれいじゃがと、私がなら、親教会に御造営に一生懸命になるという事は、神もひれいじゃがとは、神も喜びじゃがという事になるのです。しかもそれは神様が生々として感動して下さる喜びに繋がるのです。
寄進勧下をして氏子を痛めては、神は喜ばんとおっしゃるのですから、寄進勧下じゃないです。真から、真心から用えて頂きたい、御用に使うて頂きたいというておるのですから、神様がお喜びにならないはずがない。
又それが神様のひれいとなってです、還って来ないはずはない。その還ってきたものをもっていよいよ和賀心時代のいよいよ拡がって行くおかげを頂きたいというふうに思うのです。
こういう事では神は喜ばん。けどその反対な事になったら神も喜びとなるのですから、神様に喜んで頂く信心をいうなら、いわゆる求めて行かねばいけん。その内容として私共が、さっき申しましたように、それこそ汽車の時間を待つでもです、只達観しておるという聖人君子形じゃつまらん。それはおかげには繋がらん。
その待っておる間が有難いとわかる信心、いやそれが時間が遅くなってもです、神様の御都合として頂ける信心、そこに私はおかげに繋がるところの信心があると思う そこでその頂くおかげがです、例えば、信心も出来んのに頂くのですから、すみませんの、なら私がどれだけの事が例えば親教会に出来たとしてもです、それで済んだとは思いません。
これは私共が一生、【 】で、親教会なら親教会に御恩報しをするという、出来る事はありはしません、どれだけの事をしてもそれは利払いの事しか出来はしません。 元金を返すという事は何代かかっても出来るはずはありませんという本当のおかげを私共は頂いておるのです。ですからもうそこに真を現すという事は当然の事、それを現す事は当たり前の事としてです、いよいよそういう心を使われるおかげを頂きたい。どうぞ神もひれいじゃと言われる程しのおかげをめいめいの上に現して行きたいと思いますね。
どうぞ。